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いまこそimagineを歌いたい

先日、歌手 MISIA さんが、ウクライナ情勢を憂いて、 50 年前のフォークソング 「花はどこへ行った」をリメイクして歌うテレビ番組を見ました。 花はどこへ行った 少女にすべて摘み取られた 少女は、無邪気な世界の人たちの象徴 平和は、ただそこに咲いているものではなく 大切に育てていかなくてはいけないもの 番組のメッセージが心に響きました。 ウクライナ情勢を前にして、私たちは何をするべきなのか、考えることが良くあります。 いまの私の答えは、 ウクライナで起こっている現実から目を逸らさないこと。 そして、ジョン・レノンの「 imagine 」を皆で歌うこと。 周りの人はみな笑い飛ばします。 所詮、世界は大国の思惑で動く。 それは、ロシアもアメリカも同じ。 金網デスマッチで、大国に一方的に叩かれる小国を目にして、 ただ、負けるな!ガンバレ! と、金網の外から武器を渡し続ける、もう一つの大国は、戦いを止めようとしているのではなく、小国が負ないようにしているだけ。 そのうち、大国が体力消耗するのを期待して。 所詮は、自分の身は自分で守るしかない。 だから、自分たちが、強くならないといけない。 私の周りは皆そう言います。 周りの人だけでなく、 世界の人々にそう思わせたことが、 プーチンの最大の罪だと思います。 ヒットラーやムッソリーニや日本軍閥は、これからも現れるのです。 私たちのなかに潜む、猜疑心や恐怖心がそうさせるのです。 だからこそ、いま imagine を皆で歌いたい。 発表から 50 年を経ても、今なおこの曲が色褪せないのは、その間、人が何も進歩していない証なのかも知れません。

宮沢賢治の理想郷 イーハトーブ

宮沢賢治は岩手県花巻市の裕福な商家に生まれました。 大好きだった妹の死を目前にして詠んだ詩「永別の朝」の一句が有名です。 (あめゆじゅ とてちて けんじゃ) 宮沢賢治ファンの私の姉は、この句が大好きで、「いいでしょ〜」と涙ぐみながら訴えかけてきますが、私にはどうもピンときません。 「賢治兄よ、雨雪(みぞれ)を取ってきてくれよ。」 この言葉が訛っただけ、私にはそうとしか読めません。 「どこが良いの?」との問いに、私を納得させる答えはついに返ってきませんでした。 宮沢賢治の最も有名な顔写真は、視線を外した上目遣いの、はにかんだような表情が印象的です。 彼は稀代の空想家で造語の天才だったようです。 その最たる造語が「イーハトーブ」です。 彼の思い描いた人の暮らしの理想郷をそう呼びました。 熱心な真宗教徒であり、農民が幸せに暮らすために自分は何をすべきなのか、を彼は常に考えていたようです。「雨にも負けず・・」で始まる有名な詩は、そんな彼の理想とした生き方を表したとされます。 オノマトペ(擬音語や擬態語)を多用したことでも知られています。「風の又三郎」の冒頭の風の音「どっどど どどうど どどうと どどう」は特に有名です。東北地方の激しく冷たく吹きすさぶ風の音を、上手に言葉で表現したとされます。 「銀河鉄道の夜」では、主人公ジョバンニが偶然に乗り合わせた人達との会話を通して、人の本当の幸せとは何か、を読者に問うています。そして、その人達はみな亡者だと気づくことで、ミステリアスでファンタジックな物語に昇華するのです。何度読んでもピンとこない私は、恥ずかしながら、解説本を手に取り、ようやく理解することができました。 「宮沢賢治学会」なる組織があるそうです。 イーハトーブ館は学会の研究発表の場で、いまでも新しい研究本や解説本、絵本が絶え間なく出版されていて、展示販売されていました。宇宙飛行士・毛利衛さんも著者の一人です。 いまでも宮沢賢治のファンは絶えることがありません。 彼らの感性を揺さぶる何かを、宮沢賢治の残した言葉は持っていて、いまも何かを発信し続けている。 理屈先行型の理系男子の私には、到底理解できない魅力を彼は持っているのだ、そう理解することはできました。 宮沢賢治の言葉や物語は、頭で理解するものではないのかも知れません。 その日に訪れた「イーハトーブ館」は、建物のボリュー

カッパのお伽話 遠野物語

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田舎育ちの父は8人兄弟の下から3番目で、すぐ下の弟は幼少期に溜池で溺れて亡くなったそうです。戦前の農村では、決して珍しくない水難事故だったようです。 遠野物語の時代、「カッパ」のような生き物は、全国各地の農村山村にいたのかも知れません。村の子供たちは、いつまでも水辺で遊んでいると、カッパに足を掴まれて池の底に引き込まれるぞ、と親たちから脅されたようです。 河童の存在を、水難事故防止の教育譚と断じるのは、あまりに身も蓋もない言い方かも知れません。 明治時代の民俗学者・柳田國男が、遠野地方出身の作家志望の学生・佐々木喜善が記憶している故郷の民話を聞き取りまとめたものが「遠野物語」です。 家族間の口伝で語り継がれた昔話、民間伝承、説話、怪奇譚などを、起承転結に囚われず聞き取りしたまま書いたものです。いわゆるお伽話の類ではなく、何々村の誰某がどうこう、という風に、登場人物が具体的で生々しい同時代の怪しい出来事ばかり記録されているのが特徴です。 物心のついたばかりの子供に、大人が言い聞かせる、それは恐ろしい物語だったようで、村落共同体のしきたりを子供に刷り込ませる儀式を兼ねていたものかも知れません。 遠野物語の三大キャラといえば、カッパ(河童)、ザシキワラシ(座敷童子)、オシラサマ、です。 ザシキワラシは童子の姿をした精霊で、旧家の没落の予兆としてその家に姿を現します。ザシキワラシが去るとなぜか家の身代も傾いてしまう。裕福な旧家の興亡をそれとなく説明するために作り出された原理と言われています。 裕福な旧家で障害をもつ子供が生まれたら、人前には出さずに家の中で育てることがあったようです。それを客人が偶然に見つけたら、家人はザシキワラシと説明したのかも知れません。田舎の旧家の蔵座敷は、普段は使われることのない暗い閉鎖空間で、子供に語る妖気漂う物語にうってつけの場所だったようにも思います。 オシラサマは遠野特有のキャラかも知れません。 便所風呂は屋外なのに、馬とは一つ屋根の下で暮らす、そんな遠野地方の風習から生まれた神様です。その家の飼い馬と少女ができてしまう異種婚姻という尋常でない逸話が由来のようですが、蚕の守り神、家の守り神などとして、遠野では古くから厚く信仰されてきました。それにしても、遠野伝承館に集められた千体ものオシラサマ人形には圧倒されました。 遠野を訪れた柳田國男は「

大和心を人問はば・・

古事記の研究で知られる、江戸時代の国学者、本居宣長の詠んだ和歌が気に入ってます。 「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂う山桜花」 分かりやすく意訳すれば、こうなるようです。 日本人の根底にある美意識は何かと問われれば、 朝日に映える桜を前に、ただ美しい、と感じる心だ。 この和歌が好きなのは、宣長の感性の豊かさと表現の適切さを感じるからです。当代一の知識人が、古来からの日本人の根底にある美意識を和歌に託して理路整然と語る。 かっこいいな〜なんて、無いものねだりの憧れですが。 江戸時代、武家の学ぶ官学は朱子学(儒教)でした。著名人では林羅山や新井白石の名が上がります。 天地に上下の区分があるように、人の身分にも上下が定められている。私利私欲を抑え、常に敬の心にもち、身分秩序に合った生き方を心がける、そう説く朱子学は、幕藩体制を維持するのに好都合だったようです。 本居宣長は、仏教や儒教などの外来思想の影響のがない、古代の人々の心を知ることで、日本固有の精神を明らかにしました。 万葉集などにみえる、素朴でおおらかな精神、人の自然な感情の動きを大切にして、もののあわれ、を文芸の本質として捉えたとされます。 日本文化の本来の良さを知った上で、外国文化に接することが大事、そんな感性を大切にしたいと思います。 ただ、戦前の軍部が、この歌を曲解して国粋主義のプロパガンダに利用したため、敷島、大和、山桜花などの美しい言葉が、軍国主義のイメージを引きずるようになった事は残念でなりません。 大陸から適度に離れ、異民族に蹂躙されることなく独自の美意識を育んできた島国には、豊かな自然と四季の移ろいを愛でる穏やかで勤勉な国民が住まう。 様々な要素が組み合わさって、いまの日本があると思います。 この国に生まれた事、それだけで十分に幸せなのかも知れません。

美しい日本建築の発見者

昭和初期に来日したドイツ人建築家のブルーノ・タウトは、日本建築の素晴らしさを世界に紹介しました。 白川郷合掌作りの機能性に感嘆し、桂離宮の美しさを発見したのは自分だと語っていたそうです。数寄屋作りの中にモダニズム建築に通じる近代性があることを評価したとされます。 その一方で、日光東照宮の建物を装飾華美とコケ下ろしたことでも有名です。機能・構造・意匠の統合を建築美と考えたモダニズムの推進者らしい評価です。 シドニーオペラハウスの設計者であるヨルン・ウッツォン( Jorn Utzon )は、日本建築のイメージスケッチを残しています。 それは、基壇の上に浮かぶ大屋根。 梁、束、垂木などを複雑に組み合わせた小屋組に瓦が載る重厚な屋根、それを細い木材の柱だけで支える日本建築をそう表現したのです。外壁は構造的に不要なため、季節や天候に応じて、朝晩には板戸・障子・襖・蔀戸(しとみど)などを開け閉めできる開放性を、空に浮く大屋根とイメージしたようです。 欧州の教会に思いを馳せると、巨大な聖堂空間に如何にして屋根を架けるのかが最大の課題でした。地震大国の日本において、数百年前から培われて来た高い技術力も、欧米人にとっては驚きだったようです。 大屋根を支える軒裏には、日本建築の美しさが凝縮されているように思います。深い庇を支えるためには、垂木と桁、肘木と斗栱などの構造部材が複雑に組み合わさり、とても素晴らしい造形美を作り出しています。 お寺参りの際に、私たちが何気なく見上げたその先に、日本建築の美しさが宿っている。そう考えると、神社仏閣巡りに新しい楽しみが増えたような気がします。

仏像の写真

興福寺の国宝館がお気に入りで、いままでに何度も足を運んでいます。阿修羅像はインド地場の戦闘神が仏教に帰依したもので、その少年風の顔からは、今までの所業への後悔と先行きへの不安感が伝わってきます。無著、世親の菩薩立像は鎌倉時代の木彫仏ですが、深い目尻のシワと細く鋭い眼は、真実を射すくめるように写実的です。 東大寺の金剛力士立像は、高さ8mを超す運慶・快慶による鎌倉時代の木像ですが、上半身が下半身よりかなり大きく作られていて、下から見上げて初めて調和が取れるようデザインされています。見る者の視点を意識する遠近技法は、西洋では、16世紀にミケランジェロにより描かれたシスティーナ礼拝堂のフレスコ画「最後の審判」が有名です。 ルネサンスより前の時代に、それに匹敵する表現技法を会得していた日本の工芸技術は、間違いなく当時世界一だったと思います。 しかし、その後に彫られた仏像も、写実性とはほど遠く、相変わらず扁平で無機質に感じられます。 戦後の写真家・入江泰吉は、数多くの秘仏をカメラに収めました。仏顔を仰ぎ見る角度や光の当たり具合などにより、仏の表情の変わることが、彼の写真からは伝わって来ます。 彼は、仏像を取り続けるなかで、意図せず祈りを捧げている自分に気づいたそうです。そして、灯明や蝋燭の光のかすかな揺らぎにより、仏像の表情が優しく微笑んだり、悲しみに沈んだりすることにも気づいたようです。 仏に帰依する心を持つ人には、そこに仏像本来の慈悲の姿が見えたのかも知れません。一見、扁平で無表情に見える仏顔も、見る者の心の持ち様次第で、どのようにでも見えたようです。 それにしても、秘仏を撮影できただなんて、なんちゃって仏像マニアの私にとって、とても羨ましい限りです。

神仏習合

江戸末期まで、日本各地にあった神社と寺は一体でした。人々は、鳥居をくぐってかしわ手を打ち、南無阿弥陀仏と唱えることに、何の違和感も持たなかったようです。これが、いわゆる神仏習合です。 明治政府の神仏分離政策により、千年以上にわたって一体だった神社と寺が分離されました。いまの私達は、お寺に鳥居があることに違和感を感じますが、それは神仏習合の名残りなのです。 キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などは唯一絶対神を崇める宗教で、世界中に信仰を広める過程で、その地にあったはずの地場神を根絶やしにしてきました。なんとも無慈悲な宗教です。 しかし仏教は、多神教で融和性の高い宗教のため、地場神を取り入れて東アジア一帯に広まりました。四天王と呼ばれる神々も、阿修羅など八部衆と呼ばれる神々も、みなインドの地場神が仏教に帰依した姿とされています。 なかでも、アジア辺境の日本神道との相性は抜群に良かったようです。仲睦まじい夫婦のように、お互いを補完し合って共存してきました。これが日本における神仏習合です。 神道は仏教以上に多神教でした。元来は自然神への信仰なので、その場所毎に神が宿り、その神を祀るのが神社だったので、神社の数だけ神がいるといっても過言ではありません。有名な神社であっても、参詣者が祀られている神々を知らないのは当然なのです。 ただし、その後、大和朝廷が全国を席巻したために、彼らの祖先である天照系の神々が、どの神社の祭神にも名を連ねるようになってはいますが。 神道には、偶像や道徳律、教義や学問がありません。祭祀を司る神職はいますが、神の教えを説く司祭など指導者や学者はいません。万物自然を神とするため、神殿すらいらないのが本来の姿だと思います。 医学・薬学・文学・論理学などの技術を伴って伝来した仏教は、文明的にも学術的にも高度に洗練された宗教であり、日本に伝来して以降、日本神道の弱点を補ってきたようです。 例えば、祝い事は神事ですが、穢れを忌み嫌う神道の扱わない分野、例えば葬式などを担ってきたのは仏教でした。仏教は、霊魂を概念化して来世を予見し、悲しむ遺族の心を安らかに導いたのです。 また、伊勢神宮などの式年遷宮する神社を除き、日本に数多ある神社の本殿も拝殿も、ほぼ全ての建物は仏教建築そのものです。 御朱印が流行っています。神社や寺に参拝した証として押印されるもので、本来は純粋な宗