かしわ手の先に

年始、近くの神社に初詣に行きました。

鳥居をくぐり、お賽銭を入れ、鈴を鳴らして、かしわ手を打ち、一年の無病息災や心願成就を祈願する、日本人の年始恒例行事です。

しかし、よく考えると、我々は何に対して拝んでいるのか、かしわ手の先には何があるのか、誰も知らないのではないでしょうか。

寺では仏像、教会ではキリスト像、と分かりやすく目に見える形で拝む対象がありますが、神社ではそれが見えない、そして、それを誰も気にしていないようです。

また、そこに祀られている神様も知らないのだと思います。関西の初詣といえば、大阪では住吉大社、京都では伏見稲荷、神戸では生田神社が有名ですが、参詣者で祀られている神様を知っている人は皆無だと思います。


明治初期に来日した欧米の知識人は、ユーラシア大陸の東端に発達した文明に大変興味をそそられたようです。その一人、英国外交官で日本研究者として知られるW・G・アストンは自らの著作にこう書いているそうです。


神道と総称される日本古来からの神様崇拝は、世界の大宗教に比べて決定的に未発達である。

多神論であり最高神がないこと、偶像や道徳律がないこと、霊の概念を人格化しないこと、それを把握するのを躊躇していること、来世の状態を認識していないこと、深く熱烈な信仰がないこと、等々から、宗教としてはとても未発達なのだと。

しかしながら、この未発達な宗教が、文字による記録をもち、醸造・製陶・架橋・採鉱などの技術に秀でた民族と安定した政府の下で、高度に組織化された聖職と精巧な祭儀を有していることに驚いているとも。


明治政府による神道国教化の路線を目撃してきたアストンは、著作の結論で、今の神道の本流は江戸時代の国学者・本居宣長と平田篤胤による「純粋神道」であるとしながら、それはもはや一般民衆に対して活力を有していないとしています。

明治政府の神仏分離令により衰弱状態にあった仏教がその活動を回復しつつあり、さらにより手強いキリスト教の前進を前提として、「国家宗教としての神道はほとんど絶えてしまった。しかしそれは、民間伝承や慣習の中で長い間生き続けるだろうし、日本人の特徴であるより単純でより物質的な神の側面への生き生きとした感受性の中に生き続けるだろう」と結論づけています。


八百万の神とは、森羅万象に神を感じる日本古来の考え方から発した言葉です。そして今では、海の神、山の神のような自然界や自然現象を司る神々だけでなく、商売や学問の神々、縁結びなど人間関係の神など、その数と種類の多さを表すようになりました。私たちの日々の暮らしに、いかに神が身近に存在しているかを象徴する言葉です。

初詣、七五三、結婚式など祝い事では、家族が揃って神社さんにお参りして、笑顔で記念撮影におさまる。伝統を守るという重いものでもなく、誰に説明ができるものでもないけど、この日常の暮らしに根づいた伝統的な所作を敬う姿勢こそが、美しい日本の原点なのかも知れません。

コメント

  1. Kotaroさま。初めまして。数年前よりこのサイトを、楽しく&感心して拝見しております。
    素晴らしく模様替えされ、こちらもなんか感激しております。
    今後も可能な範囲で結構ですので、更新をよろしくお願い致します。
    テリー横田
    https://terryyokota.hatenablog.com/
    https://www.facebook.com/terry.yokota1

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    1. テリー横田様。コメント有難うございます。
      こんなマニアックはサイトを見て頂き感謝しております。
      貴殿のブログも拝見しました。テーマ分野は違えども、好奇心をもって楽しく人生を謳歌されている様子に感動しました。これからもご活躍されることを期待しています。

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